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千鳥ヶ淵の遊歩道に沿って、東口から戦没者墓苑に入ると、正面には今年も、大勢の先輩方のいのちによってもたらされた平和を象徴するように、日本国旗が掲揚されていました。
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第33回
千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要に参列して
日本列島を縦断して甚大な被害をもたらした台風18号から2日経った、平成25年9月18日。 国立・千鳥ヶ淵戦没者墓苑において浄土真宗本願寺派による追悼法要が営まれました。
去年始めて追悼法要に参列した私は、「どんな様子で挙行されるのだろう」と、そちらにばかり気持ちが向いていました。
今年は2度目でもあり、電車を降りて会場に向かうとき、台風一過の真っ青な空の下、気持ちいい風を感じながら、「太平洋戦争で南方に送られ、いのちを落とした大勢の方々のこと。 68年前、終戦の大混乱のなか、失意と疲労困憊の極限状態の引揚者にとって、祖国・日本への道のりは絶望的なほど遠く、険しいものだったろう」と考えたら、平和を享受できることの有難さを痛感しました。 |
千鳥ヶ淵 墓苑はこの左手です
国立・全戦没者墓苑 東口 |
12時45分から始まる追悼法要より、かなり早く到着したので、周辺を見学しました。 その様子をお伝えします。
納骨室手前にある前屋の東側には、平成22年に建立された、永遠の平和記念碑がありました。
第33回
千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要
仏教讃歌
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「平和記念碑」の説明には、「引揚に伴う戦死者の永遠の平和記念碑」として、「昭和20年8月、今次大戦が終結し、終戦の大混乱の中、生活の全てを失い、苦難の末祖国に引揚げてこられた方々は、約320万人にも及んだ。 しかし、終戦の失意と疲労困憊の極限状態にあった引揚者にとって祖国への道のりは遥かに険しいものであり、引揚の途中、20万人余りが犠牲になった。 これら引揚者の過酷な体験を記憶し、後世に伝えるとともに、犠牲となられた方々へ深い哀悼の意を表し、恒久の平和を祈念して、この碑を建立する」と刻まれています。
次 第
一、宗門関係学校生徒作文 朗読・表彰式
一、仏教讃歌斉唱・献花
[曲目]みほとけは・追悼の歌
一、平和の鐘
一、平和宣言
一、千鳥ヶ淵全戦没者法要
ご門主様ご焼香
三奉請
表白
正信念仏偈 読経中、お裏方様新門様ご焼香
和讃・念仏(音楽依用)
回向文
仏教讃歌斉唱[曲目] み仏にいだかれて
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多くの尊い命が犠牲となったアジア・太平洋戦争が終結して、今年で68年になります。私は浄土真宗本願寺派を代表し、ここ千鳥ヶ淵にご参集の皆さまとご一緒に、国内外のすべての戦没者に対して、心よりの追悼の意を表し、また、ご遺族の方々の消えることのない悲しみを、あらためて深く心に刻みます。
私たちの平和への願いにもかかわらず、世界では今も各地で紛争が起こり、戦火が絶えることがありません。この瞬間にも、数多くの尊い命が失われ続けています。命の尊さを語りながら、命を奪い合うという矛盾したあり方に、私たち人間の愚かさを痛感せざるをえません。
罪悪深重と親鸞聖人が述べられたように、私たちの愚かさはどこまでも根深いものです。私たちは、阿弥陀さまの智慧の光に照らされてこそ、その愚かさに気づかされるのです。あらゆる命あるものは、過去から現在へ、現在から未来へと、無限の広がりをもって繋がっています。恒久的な平和を実現するためには、すべての生命の繋がりに目覚め、自己中心的なあり方、すなわち私たちの愚かさを克服していかねばなりません。
今もなお紛争が絶えない現実を目の当たりにし、これまでのあらゆる戦渦で犠牲になられた方々の心の無念さに、私たちはあらためて想いを寄せ、武器によっては世界の平和、全人類の幸福はもたらされないことを再度、共に自覚し、恒久の平和を目指すことを、今、ここに、あらためて誓いましょう。このことこそが、戦渦で亡くなられた方々を追悼することのまことの意味でありましょう。
「衆生病むゆえに我もまた病む」という仏や菩薩の大慈大悲の心にはほど遠い私たちではありますが、阿弥陀さまの慈悲の光に包まれていることに気づかされる時、心を尽くして他者の痛みに寄り添い、希望ある未来のために貢献しようという意志が生まれます。
尊い命が失われた歴史を後世に語り継ぎ、それを教訓として、自他共に心豊かに生きることのできる恒久平和の世界を実現するために、本日、私たちは「世のなか安穏なれ」との願いをこめて、日本各地で平和の鐘を響かせます。「響流十方」と響きわたるよう、この願いを世界に広げてまいりましょう。
2013(平成25)年9月18日
総長 園城 義孝 |
私たち浄土真宗本願寺派では、戦後、本願寺ならびに大谷本廟において、「戦没者追悼法要」を修行してまいりました。あわせて1981(昭和56)年から、毎年9月18日に、東京都千代田区にある国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑において、「全戦没者追悼法要」をお勤めしてまいりました。
「全戦没者」という言葉には、人類が繰り返してきた戦争によって、尊いいのちを失われた世界中の全ての戦争犠牲者への思いが込められています。
また、毎年お勤めしている9月18日は、15年にわたる「アジア・太平洋戦争」につながっていった「満州事変」の発端である「柳条湖事件」が1931(昭和6)年に起こったその日でもあります。
国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、1959(昭和34)年に建てられた国立の墓苑で、主に「アジア・太平洋戦争」で亡くなられた軍人から民間人にいたるまでの、ご遺族のもとに帰ることのできなかった約35万の方々のご遺骨が納められています。
それらの経緯からしても、この墓苑は、国籍・思想・信条などを超えて、全ての戦没者を追悼するに相応しい厳粛にして大切な場所であると言えます。
1995(平成7)年4月15日に本願寺で厳修された「終戦50周年全戦没者総追悼法要」に際してのご親教でご門主は、「宗祖の教えに背き、仏法の名において戦争に積極的に協力していった過去の事実を、仏祖の御前に慚愧せずにはおれません」と、宗門の戦争にかかる責任を明らかにされ、平和を求める念仏者としての決意を表明されました。
また、2004(平成16)年5月24日には、総局が、「戦後問題」に関する「宗令」「宗告」を発布し、宗門として改めて「宗門における『戦後問題』への対応に関する総局見解」を示しました。その中で「戦時下における宗門は、政治の全体主義化・軍国主義化とともに厳しい法の統制をうけながら、国策としての戦争や国体護持に協力してきました」とし、「このうえは、『世の中安穏なれ』『仏法ひろまれ』との宗祖の遺訓を体し、過去の歴史への反省に立って、戦争のない平和な世界を築いていくため、世界中の人びととの交流と対話をとおして、非戦・平和への取り組みをさらに進めていく所存であります」との決意を表明しました。
そうした立場から、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で追悼法要を修行することは、日本の侵略戦争に協力した私たちの宗門の過ちを反省し、慚愧の思いをもって、戦争のない世界を築くという願いのもと、平和への誓いを新たにすることに他なりません。
本法要を機縁として、全ての戦没者の方々を追悼するとともに、今後ともそれぞれの立場で非戦平和への取り組みを進めさせていただきましょう。
―千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要委員会―
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み仏にいだかれて
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一、
二、
三、
四、 |
みほとけに いだかれて
きみゆきぬ 西の岸
なつかしき おもかげも
きえはてし 悲しさよ
みほとけに いだかれて
きみゆきぬ 慈悲の国
みすくいを 身にかけて
しめします かしこさよ
みほとけに いだかれて
きみゆきぬ 花の里
すきせざる たのしみに
笑みたもう うれしさよ
みほとけに いだかれて
きみゆきぬ 宝楼閣
うつくしき みほとけと
なりましし とうとさよ
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本屋に向かって右側には、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、先の大戦において海外で亡くなられた戦没者の御遺骨を納めるため、昭和34年、国により建設された 無名戦没者の墓 である」ことや、海外主要戦域別の戦死者数などを刻んだレリーフがありました。
左の写真は、上の左側部分を正面から撮ったものです。 昭和12年7月7日以降(支那事変からポツダム宣言受諾までの大東亜戦争)の軍人・軍属・一般邦人の戦没者総数が240万人である書かれています。
亡くなられたお一人お一人に、親があり、子があり、愛しい人がおられたことを考えると、胸が苦しくなりました。
説明文には、「強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑」として、「昭和20年8月、今次大戦が終結し、武装解除後にもかかわらず、急ソ連は約57万5千人もの軍人軍属及び民間人をシベリアや中央アジアなどに長期にわたり強制抑留し、鉄道施設や森林伐採などの過酷な強制労働に従事させた。栄養失調や酷寒の劣悪な作業環境で約5万5千人が犠牲となられた。‥‥‥」と刻まれています。
正信念仏偈のお勤め
参拝された中央仏教学院・通信教育生の会の皆さま
園城総長が宣言されたご文です。
「第33回 千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」で配られた冊子に記載された文章です。
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