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私は、何のために生きているのか?
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働いているときは、朝、目が覚めて、「今日もいい一日が始まったぞ。今日はこれをやって!」と思うときもあれば、「あーあ、今日も会社かあ、また仕事しなくちゃならないなあ、仕方ないなあ」と思うときもあるでしょう。そんなときでも仕事に行って一日が終わると、「今日も一日がんばったなあ、ビールでも飲むか」といって毎日が過ぎていきます。
そしてあるとき定年になって、仕事から離れざるを得なくなると、「明日も休みだったらいいなあ」と考えていた自分が、「今日は何をして一日を過ごしたらいいんだろう?」 「私は何のために生きてるんだろう?」 「こんなダラダラしてて良いんだろうか?」と悩みだします。
そして時間が経つうちに、ある人は別の職場で働き出し、ある人は何にもしないことに慣れて行き、ある人は趣味に生きがいを見出し、ある人は勉強を始めたりします。
しかし、何をしていても、「私の人生って何なんだろう?」 「私は何のために生きてるんだろう?」 「私はどう生きたらいいんだろう?」という疑問がつきまといます。
「何のために生きる? そんな余計なこと考えなくたって、生きてるんだからいいんだ」と言い放つ人もいるでしょうが、この先、何が起こるかわからないのが人生です。平成20年の警視庁資料によれば毎日2600人、つまり1分間で2人が交通事故によって、負傷したり死亡したりしています。先日の東北関東大震災では、太平洋プレートが日本列島側のプレートに潜り込むときのずれで巨大地震が発生するとか、環太平洋地域の地下にたまった地球内部の高熱が移送されて起きるとか研究されてはいましたが、人間わざではコントロール不可能な未曾有の大災害で、多くの方が亡くなりました。
厚生労働省の資料によれば、日本人で1年間に死ぬ人が108万人。先の交通事故死も含め、1分間に2人づつ死んでいます。このうち、がんで死ぬ人が約3割、自殺者が四分の一を占めます。
死ぬ話をしましたが、自分は死なないと思っている人でも、人間は一人の例外もなく必ず死んで行きます。 「死ねば全部おしまい。だから、どう生きるか、何のために生きているのかなんて考えたってしょうがない」という人もいるでしょう。
しかし、本当に、死んだらそれで全部おしまいなんでしょうか?
誰にもわかりません。
死んだ記憶のある人が生きてはいないのですから。
古来、多くの先人が人間の生きる目的を探求しようと研究もし、厳しい修行も重ねてきました。
2500年ほど前、ヒマラヤのふもとにある小都市カピラヴァストゥの第一王子として生まれたゴータマ・シッダールタ(後のお釈迦さま)は、何不自由なく愛情いっぱいに育てられた。ある日、王子が都の東門から出ると腰の曲がった老人がいた。次いで南門から出ると苦しんでいる病人がいた。西門では死者の葬式の行列と出会った。最後に北門から出ると瞑想する修行者の姿があった。この四者の出会いを四門出遊(しもんしゅつゆう)といい、王子に出家を決意させることとなった。王子はその後、色々な師を尋ねて歩いて修行を重ねたが悟りは得られず、独力での修行を決意し、あらゆる難行苦行を重ねた。他の修行僧が及ばないほど壮絶な修行をし、6年間ほとんど絶食して過ごした。それにもかかわらず悟りを開くことができなかった。シッダールタは過酷な修行によっては悟りが開けないと知って、沐浴して身を清め、菩提樹の下で静かに瞑想を始めた。そのとき、通りかかった村の娘から乳粥をもらい、次々現れる煩悩と誘惑を見極めた結果、ついに苦しみの正体が明らかになり、真実の悟りを得た。35歳で「目覚めた人、仏陀」となった。
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