目 次

1.年表
2.親鸞の生きた時代

ボタン親鸞誕生から出家
4.比叡山での修行

5.越後への流罪
6.関東での布教
7.恵心尼のこと
8.帰京から入滅
9.蓮如

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3.親鸞誕生から出家へ

親鸞は、平安時代末期の末法思想が蔓延する激動の時代に生まれた

 親鸞は平安末期の承安3(1173)年、京都市中から10キロほど南東に位置する伏見区日野で、藤原氏の流れを汲む日野有範(ありのり)の長男として生まれた。母は吉光女(きっこうにょ)。幼い頃の名前を忠安(ただやす)という。
法界寺地図 古来、日野は大和から山科、近江を結ぶ交通路の要衝でもあり、行き交う人々に馬を用意する家もあったらしい。風光明媚な環境に恵まれた日野は、平安京(794年)が造営されるに及んで伏見、醍醐一帯とともに貴族たちの遊猟の地ともなった。
 親鸞から5代前の日野資業(すけなり)は、永承6(1051)年、比叡山興隆の基礎を築いた延暦寺三代座主・円仁から、延暦寺開創者の最澄が自ら彫ったとされる小さな薬師如来像を授けられ、代々日野家に安置されてきた薬師如来像を胎内に収めた薬師如来を造像し、それを本尊としてまつる薬師堂を建立して法界寺(ほうかいじ)としたといわれる。
 法界寺創建の翌年、永承7(1052)年には藤原頼道が、法界寺から南に5キロほど離れた宇治の山荘「宇治殿」を「平等院」と号し、仏寺として阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。宇治・平等院 鳳凰堂
  この年は仏法が滅亡する「末法(まっぽう)」初年にあたると予言された年でもあった。当時広く信じられていた末法思想とは、釈迦が亡くなってから500年を正法(しょうぼう)、教(仏の教え)と行(教えの実践)と証(得られる証し)の3つが揃っている時代、次の500年が造法(ぞうほう)、教えと行は残るが、悟るものがいなくなる時代、つまり形式的に仏教が継承されている時代。そして釈迦の死後1000年経った1052年から末法(まっぽう)の世になると信じられ、末法は教えだけ、抜殻だけしか残らず仏教が衰退していく時代と考えられた。 
 この末法を思わせる出来事や退廃的な社会風潮の中で、無常観や厭世観が広まり、ついに仏法が滅びる時がやってきたという危機感が蔓延した。この救いのない末法到来に、貴族や僧侶のみならず、広く一般大衆も不安と恐れを抱いた。末法到来に怯えた人々は、現世で幸せは願えないから、来世で極楽に行こうという浄土信仰に救いを求めた。
 9歳で延暦寺に入り、阿弥陀如来に極楽往生を願う浄土信仰の起爆剤ともなった恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)の、「往生要集(おうじょうようしゅう)」寛和元(985)年は、法然、親鸞、一遍といった日本浄土教の祖師たちの基礎となり、多くの人々の心を揺さぶった。


 日野家は儒学と歌道を伝授する文章(もんじょう)博士という、中~下級貴族の家柄といわれる。後年親鸞が生涯かけて著述した「顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)」(坂東本・国宝)、通称「教行信証(きょうぎょうしんしょう)は、それら出自がたぶんに影響しているのだろう。
 親鸞には二人の伯父がいた。一人は高名な儒学者で、もう一人は後白河院(ごしらかわいん)の腹心で親鸞の後見人ともなった日野範綱(のりつな)だ。
この範綱の家に預けられた親鸞は9歳のとき 

(以下、書きかけです)
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